マイノリティーズリポート

少数派の為の 写真、映像、音楽、文化など

オハイオバレーの夢

その日は飛行機の中でフライトレーダーの地図のオハイオバレーのところを拡大しては町の名前を見たりしながら、ここであの音楽が生まれたのかぁ〜、あのアーティストはここで生まれてあそこにレコーディングしに行ったんだ〜とか、この場所に行ったら今まで誰も聞いたことのない忘れられたレコードが眠ってるかもしれないとか妄想にふけって長い飛行機での時間を過ごしたのを覚えています。

 

↓だいたいの僕が思うオハイオバレーの地図

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僕の夢中な音楽のほとんどが1950−60年代のこの辺り、オハイオバレーで生まれました。またジャンルについては別の機会に書こうと思います。

 

フライトレーダーを凝視してたのは、ちょうどオースティンレコードショーの帰りの便の中でした。オースティンレコードショーは全米で最大のレコードショーで、僕が集めているシングル盤が最も多く集まると言われていたところでした。

 

意気揚々とセントルイスとドイツから来た仲間とともに5日ほど前に現地入りしました。

なぜ5日前かと申しますと、ディーラーたちはショーの数日前から現地にやってきて泊まっているホテルでレコードを売り出すからです。早いもの勝ちの世界なので、本番のレコードショーだけに来ても本当にいいものは手に入りません。

 

そして4日間、ディーラーたちのホテルの部屋を昼食もとらずに周りまくりましたが結果は全然。。。よくあることですが本命のサウンドには全く当たりませんでした。

 

数が少ないことに加えて理由は2つあります。

1つ目はレコードディーラーたちはこんなレコード売れるわけないとタカをくくり、例え見つけたとしても仕入れていない。

2つ目は場所の問題。レコードがプレスされた当時、僕の探しているアーティストたちは言ってみれば地方バンドだったので彼らのレコードは手売りが基本でした、あまり地元を出ずに活動していたバンドも多かったので、出身地からレコードが出ることも多くはなかったようです。

ディーラーたちはマイアミやらカリフォルニア、レコードショーの近くのテキサスの街から来ているのでオハイオバレーのレコードに出会うことはなかなかないのです。

 

僕と仲間2人はがっかりしてました。。。

わざわざここまでやって来てこれか。。。飛行機代もホテル代もレンタカー代もなんもかも、1枚でいいからお気に入りに出会うためだけに費やしたのに、、、、

 

諦めきれず再度同じディーラーのレコードをチェックしに行ったりしていたところ、仲間に電話がかかって来ました。

インディアナから二人組のディーラーが到着した。。。と

インディアナ!!!!インディアナといえばオハイオバレーサウンド!インディアナといえばシンシナティに続いて僕らの好きなサウンドのキャピタル!日本でいえば横浜、中国だと上海みたいな、首都には数では負けるもののあるクオリティでは上かもしれない、という街!期待大!

 

ということでその時漁っていた目の前のレコードを元の箱に戻し、気温40度近くの猛暑の中、皆でそのインディアナからやって来たレコードの待っているホテルの部屋へダッシュで向かいました。

汗だくで到着するとそこには既に1人、インディアナからのバイヤーがレコードを物色中でした。地元同士、情報が早い。ただ僕らは2番でした。まだチャンスはある、僕らは心臓がバクバクで頼むから見逃してくれ!という気持ちでドアの前に立っていました。

”この箱は見終わったから見ていいよ”の声とともに冷静を装って箱を物色し始めました。。。たった2つの箱でした。

 

↓こんなもんでした

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100枚足らずのレコードの中から僕たちは数枚ずつお気に入りのレコードを手に入れることができました。それまで数日間、何千枚と見てきて全く見つからなかったものがたった2箱、片手で持てる量の中から数枚見つけることができた!

インディアナ、すげ〜!

 

僕は興奮していました。その時、やっぱりレコードの生まれた土地に行かないといけないとおもいました。そして次のレコードの旅はインディアナから始まるオハイオバレーと決めたのでした。